愛知の文学

杜若

作品書名時代地域
杜若(かきつばた) 松尾芭蕉ほか(俳諧) 江戸時代 名古屋市中区・緑区
熱田区・南区
新城市・愛西市
豊橋市・犬山市
津島市

俳諧(はいかい)とは俳諧連歌の略称で,連歌の滑稽(こっけい)なものが独立したのがおこりである。独立の機運は,すでに中世において山崎宗鑑(そうかん),荒木田守武(あらきだもりたけ)らによってなされた。それが貞門(ていもん)派・談林(だんりん)派の活動を経て,文芸の一ジャンルとして流行するようになった。さらに松尾芭蕉が伝統的な芸術理念に助けられて,これを独自のものとして確立したのである。
以上のような俳諧の歴史を念頭に置いて,愛知を眺めてみると,この地は江戸時代に御三家筆頭徳川氏の領国であり,関東と上方(かみがた)との中間に位置し,双方の文化を取り入れて独自の文化を形成したことが注目される。俳諧においても,貞門の地ならしが早くからできていた土地であり,杜国(とこく)ら富裕グループや鳴海の知足(ちそく)を盟主とする俳団などの活動が盛んであった。芭蕉は,母の墓参のために1684年8月芭蕉庵を出発して故郷へ向かったが,この『野ざらし紀行』の旅で,これら尾張の俳人たちと深い関係を持つようになった。
この旅の収穫ともいえる『冬の日』をはじめ,『春の日』『あら野』と,俳諧七部集のうち最初の三集が名古屋において成ったことは,名古屋が芭蕉俳諧に大きな比重を占めることの証(あか)しといえる。

作品

松尾芭蕉(まつおばしょう)

A 熱田(名古屋市)での句

あそび来(き)ぬふぐ釣(つり)かねて七里まで

〈訳〉桑名から(今浦島を気どって)ふぐ釣(つり)に興じてきたが,とうとう釣れないままに七里の渡しを熱田まで来てしまった。

  • 「蕉風発祥の地」の碑
    (名古屋市中区)

  • 七里の渡し,常夜灯
    (名古屋市熱田区)

B 鳴海での句

船足(ふなあし)も休む時あり浜の桃

〈訳〉うららかな春の日,沖行く船も霞の中にふと止まるかと思うような一瞬がある。浜には桃の花が咲きほこり,けだるい雰囲気だ。

C 越人は酔って馬に乗った
  伊良湖岬への道中での句

ゆきや砂むまより落(おち)よ酒の酔(ゑひ)

〈訳〉海に沿った道は雪や砂で柔らかい。これならば馬から落ちてもひどくはあるまい。雪見酒に酔った方よ。さあ馬から落ちてみるがよい。

D 新城(しんしろ)の鈴木白雪を訪ねた折,鳳来寺の参詣のときの句

夜着(よぎ)ひとつ祈り出(いだ)して旅寝(たびね)かな

〈訳〉鳳来寺への参詣の途中で病に伏した。祈りをささげ,法力のおかげか夜具が整った。どうにか無事に旅寝ができることだ。

E 江戸で笠寺を思いやって詠(よ)んだ奉納句

笠寺(かさでら)やもらぬ崖(いはや)も春の雨

〈訳〉縁起にあるように堂舎が備わって観音像も雨に濡れなくなったことであろう。しかし今は春雨の季節だから御堂の屋根を春の雨がしっとりと濡らしているにちがいない。

F 鳴海の知足亭(ちそくてい)での句

杜若(かきつばた)われに発句(ほっく)のおもひあり

〈訳〉ここは杜若で有名な八橋の地に近く,この家の庭にも咲いている。私も古人(業平)が古歌を詠んだのにあやかって発句を詠もう。

G 佐屋(愛西市)での句

水鶏(くひな)なくと人のいへばや佐屋泊(さやどまり)

〈訳〉ここ佐屋のあたりでは夜になると水鶏がよく鳴きますよと人が言った。だから今日はここで泊まって水鶏の鳴くのを聞くとしよう。

  • 水鶏塚(愛西市)

H 三河吉田(豊橋市)での句

ごを焼(たい)て手拭(てぬぐひ)あぶる寒さかな

〈訳〉この地の習慣で古松葉を焚いて濡れた手拭いをあぶっていると,冬の旅情が身にしみることだ。

山本荷けい(やまもとかけい)

尾張藩士の出で医を業とした。

I 熱田の船着き場での光景を思い出して詠(よ)んだ句

春めくや人さまざまの伊勢まゐり

〈訳〉春めいた陽気に誘われるように,熱田の船着き場にはさまざまな伊勢参りの人々が集っている。

J 鳴海の知足亭での句

いく落葉それほど袖(そで)もほころびず

〈訳〉いったいどれほどの落葉が行脚を続けてきた芭蕉の袖にふりかかったことだろう。それにしては袖もほころびずに,お元気なことだ。

越智越人(おちえつじん)

北越の生まれで,名古屋で紺屋を営んだ。

K 山吹のあぶなきそばのくづれかな

〈訳〉崩れかかった崖の見るからに危うげな所に,山吹の花が咲いている。

L 玉まつり柱にむかふ夕(ゆふ)べかな

〈訳〉盆の魂祭りにも,我が家には仏壇も魂棚もなく,夕方,部屋の柱を魂棚と見立てて,これに向かい祖先の霊を弔った。

沢露川(さわろせん)

伊賀生まれで,名古屋市で数珠(じゅず)商を営んだ。

M 草刈の道々落す野菊かな

〈訳〉草を刈る農民が,草をかついで,道々,野菊を少しづつ落としていくよ。

榎本其角(えのもときかく)

近江(おうみ)に生まれ,医を業とした。

N 羽ぬけ鳥鳴音(なくね)ばかりぞいらご崎

〈訳〉友を先立てた羽抜鳥の鳴く声が伊良湖の海に響くだけで,今はもう友鳥はどこにも見えない。

内藤丈草(ないとうじょうそう)

犬山藩士の出で,後に遁世(とんせい)し,京都に出て芭蕉に入門。

O ほこほこと朝日さしこむこたつかな

〈訳〉冬の朝日がいかにも暖かそうにさしこむ草庵で,こたつに入ってゆっくりしていることだ。

P 犬山城の松に見入っての句

涼しさを見せてそよぐや城の松

〈訳〉市中は暑さにうだっているが,山上の城の松は涼しそうに風に吹かれている。

  • 犬山城(犬山市)

坪井杜国(つぼいとこく)

名古屋で米穀商を営み,罪を得て名古屋を追放され,保美(ほび)に隠棲(いんせい)した。

Q 行く秋(あき)も伊良古(いらご)をさらぬ鴎(かもめ)かな

〈訳〉今年もまた秋が過ぎようとしているのに,伊良湖の浜辺のかもめたちは全く立ち去ろうとしない。

R 春ながら名古屋にも似ぬ空の色

〈訳〉春の季節を迎えても,追放の身にとっては,伊良湖の空は,故郷の名古屋の空の色とは,どこか似つかないように感じられる。

各務支考(かがみしこう)

岐阜の人。幼時に禅寺に入門したが,後,下山して遊歴。26歳で芭蕉に入門。

S 津島市で詠(よ)んだ句

あき風のふけばいよいよ旅ねかな

〈訳〉秋風が吹くと,いよいよ旅情に駆られた自分は,これから旅寝を重ねることになりそうだ。

横井也有(よこいやゆう)

尾張藩士。多芸で,書画・謡曲などもよくした。俳文『鶉衣(うずらごろも)』で名高い。

T 闇の香を手(た)折れば白し梅の花

〈訳〉闇の中の香りをたよりに折って顔にちかよせると,闇の中に梅の花が白く浮き出ている。

U くさめして見失ふたる雲雀(ひばり)かな

〈訳〉目で追っていた雲雀をくしゃみをした拍子に見失ってしまった。

加藤暁台(かとうきょうたい)

尾張藩士。蕪村(ぶそん)とも深く交わり,当時の声望は蕪村に劣らなかった。

V 暁(あかつき)のうめがかふくむ板戸かな

〈訳〉春の明け方,板戸を開けようとすると,まるで板戸にふくまれていたかのように梅の香りが漂ってきた。

W 菫(すみれ)つめばちひさき春のこころかな

〈訳〉春の野を行くと,ふと足下の小さな菫の可憐な美しさに目がいき,それを摘んだところ,そこに小さな春の心が感じられた。

井上士朗(いのうえしろう)

名古屋の産科医。俳諧は暁台門の筆頭で声望があった。

X 青天(せいてん)に雪の遠山(とほやま)見えにけり

〈訳〉冬のよく晴れた日に青天を背景に雪をかぶった遠山が浮き出て見える。

Y 矢作(やはぎ)にて

青柳(あをやぎ)の東海道は百里かな

〈訳〉はるか遠くへ向かおうとする東海道は今まさに青柳の春景色である。