愛知の文学

八代集

作品書名時代地域
愛知の歌枕
(うたまくら)
八代集(和歌)
(はちだいしゅう)
平安・鎌倉時代 知立市・幡豆郡
豊川市・豊明市
名古屋市緑区
渥美郡

平安時代,国風文化の興隆に伴い,天皇または院の勅命や院宣(いんぜん)によって和歌集が作られるようになった。これを勅撰和歌集という。勅撰和歌集は905年ごろ成立の『古今和歌集』をはじめとして21代続いたが,特に『古今和歌集』から『新古今和歌集』までの8つの和歌集は「八代集」と呼ばれ,よく知られている。
一方,万葉集以来,常に歌の中に詠(よ)み込まれてきた地名は自然に固定化して歌の名所となり,同時に,その名が与える観念も固定化していった。これは「歌枕」と呼ばれ,作者も読者もそのイメージを利用して表現外のニュアンスを味わうようになる。さらに,この約束事はしだいに規格化し,人々は現地に臨まないで名所を詠むようになっていく。こうして「歌枕」が与えるイメージは伝統化し,本歌取りと同じ作用をして,歌の自由な表現を制約したが,一面,古歌からくる幾重(いくえ)もの連想が,詠まれた歌の余情を深めたともいえる。
愛知においても,平安時代から江戸時代にかけて,いくつかの地名が「歌枕」として詠まれた。それらの歌は勅撰和歌集や私家和歌集を中心に残されている。しかしながら,初期のものを除けば,現地に臨(のぞ)んでその実感から詠まれたものはまれで,大部分は想像上の作歌であると考えられる。

作品

古今和歌集(こきんわかしゅう)

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬる旅をしぞ思ふ

在原業平(ありわらのなりひら)

(巻9 410)

〈訳〉なれ親しんだ妻が都にいるので,はるばる遠くまでやってきた旅をしみじみ思う。

しはつ山うちいでて見ればかさゆひの島漕(こ)ぎかくる棚無し小舟(をぶね)

在原業平(ありわらのなりひら)

(巻20 1073)

〈訳〉しはつ山(幡豆郡)を越えてはるばるとかなたを見晴らすと,棚無し小船がかさゆいの島に漕ぎ隠れていくところだ。

後撰和歌集(ごせんわかしゅう)

君があたり雲井に見つつ宮路山(みやぢやま)うち越えゆかん道も知らなく

よみ人もしらず

(巻13 918)

〈訳〉あなたのいらっしゃるあたりを雲の彼方に見やりながら,宮路山(豊川市)を越えてゆきましょう。道もわからないのですが。

拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)

惜しむともなき物ゆゑにしかすがの渡(わたし)と聞けばただならぬかな

赤染衛門(あかぞめえもん)

(巻6 316)

〈訳〉あなたとの別れを惜しむということもないけれども,しかすがの渡しを行くと聞けばさすがに平然とした気持ちでもいられない。豊川市の河口付近にあった渡し場で,「しかすが(さすがに)」を掛ける。

後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)

思ふ人ありとなけれどふるさとはしかすがにこそ恋しかりけれ

能因法師(のういんほうし)

(巻9 517)

〈訳〉(しかすがの渡りにて)思う相手が都にいるというわけではないが,ふるさとである都は,そうはいいながらも恋しいことだ。

金葉和歌集(きんようわかしゅう)

春霞立ちかくせども姫小松ひくまの野べに我は来にけり

大江匡房(おおえのまさふさ)

(巻10 666)

〈訳〉春霞が立って隠しているが,姫小松を引く引馬野の野辺に私はやってきた。

詞花和歌集(しかわかしゅう)

ふるさとにかはらざりけり鈴虫の鳴海(なるみ)の野べのゆふぐれのこゑ

橘為仲(たちばなのためなか)

(巻3 121)

〈訳〉ふるさとの野の鈴虫の声と変わりはないなあ,鳴海の野べの夕暮れに鳴く鈴虫の声は。

千載和歌集(せんざいわかしゅう)

五月やみ二村山(ふたむらやま)のほととぎす峰つづきなくこゑを聞くかな

藤原俊忠(ふじわらとしただ)

(巻3 193)

〈訳〉閏月(うるうづき)のために5月闇が2か月続くこの二村山(豊明市)のほととぎすは,峰続きに2か月分たっぷりと声を聞かせてくれるなあ。

玉藻(たまも)刈る伊良胡(いらこ)が崎の岩根松(いわねまつ)いくよまでにか年のへぬらむ

藤原顕季(ふじわらあきすえ)

(巻16 1044)

〈訳〉玉藻を刈る伊良湖崎の大岩に生えている松は,いったい幾代まで年を経てきたのだろうか。

新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)

さ夜千鳥声こそちかくなるみ潟(がた)かたぶく月に潮やみつらん

藤原季能(ふじわらすえよし)

(巻6 648)

〈訳〉夜の千鳥の声が近くなる鳴海潟よ。西に傾いた月のもとで,潮が満ちてきているのであろうか。