愛知の文学
年魚市潟
作品 | 書名 | 時代 | 地域 |
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年魚市潟(あゆちがた) | 万葉集(和歌) | 奈良時代以前 | 名古屋市南部 知多半島 三河・渥美半島 |
20巻4500余首からなる日本最古の歌集『万葉集』が,どのような経緯で,いつごろ,誰の手によって編編されたかには諸説ある。内容の多様性や形式の不統一性から,時を異にし複数の人間の手を経て現存の形になったと考えられるが,8世紀中(奈良時代)には大伴家持が深く関わってその原形といえるものができあがったらしい。短歌,長歌,旋頭歌,仏足石歌(ぶっそくせっか)などの多様な歌体からなること,作者として天皇,貴族から庶民にいたるまでのあらゆる階層が含まれていること,三河の国以東の民謡と思われる東歌(あずまうた)がまとまった数で収録されていることなど,後世の歌集には見ることのできない特色がある。
愛知はかつて都と東国の接点に位置し,その交通の要路であった関係上,伊勢湾・三河湾沿岸に万葉集ゆかりの地が散在している。名古屋市南部や知多郡,三河の豊川市,田原市などが歌に詠(よ)み込まれており,作者も都からの旅人をはじめ,流人や未詳の住人など変化に富み,素朴な民謡風の歌も含まれている。
作品
名古屋市南部
桜田(さくらだ)へ鶴(たづ)鳴き渡る年魚市潟(あゆちがた)潮干(しおひ)にけらし鶴鳴き渡る
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)
(巻3 271)
〈訳〉桜田の方へ鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は潮が引いたらしい。鶴が鳴いて飛んでいく。年魚市潟は名古屋市熱田区,南区の当時海岸であった一帯。県名「愛知」の由来となった。
年魚市潟(あゆちがた)潮干(しほひ)にけらし知多の浦に朝漕(こ)ぐ舟も沖に寄る見ゆ
作者未詳
(巻7 1163)
〈訳〉年魚市潟は,潮が干いたらしい。知多の浦で朝漕いでいた舟も沖の方に寄っているのが見える。
知多半島
あぢの住むすさの入り江の荒磯松(ありそまつ)我(あ)を待つ児(こ)らはただひとりのみ
作者未詳
(巻11 2751)
〈訳〉味鴨(鴨の一種)の住むすさ(知多郡豊浜の須佐説が有力)の入り江の荒磯松。わたしを待つのはただあの娘一人。
あぢの住むすさの入江の隠(こも)り沼(ぬ)のあな息づかし見ず久(ひさ)にして
作者未詳
(巻14 3547)
〈訳〉味鴨の住むすさの入り江の隠り沼のようにああ息がつまってしまいそうだ,長く逢わないで。
夢のみに継ぎて見えつつ小竹島(しのじま)の磯越す波のしくしく思ほゆ
作者未詳
(巻7 1236)
〈訳〉(いとしいあなたが)夢にだけずっと見え続けて篠島(しのじま)の磯を越す波のようにしきりに思われる。
三河地方
引馬野(ひくまの)ににほふ榛原(はりはら)入り乱れ衣(ころも)にほはせ旅のしるしに
長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ)
(巻1 57)
〈訳〉引馬野(豊川市)の色づく榛の原に入りまじり衣を染めよ,旅のあかしに。
いづくにか舟泊(ふなは)てすらむ安礼(あれ)の崎(さき)漕(こ)ぎたみ行きし棚(たな)なし小舟(をぶね)
高市連黒人(たけちのむらじくろひと)
(巻1 58)
〈訳〉どこで今ごろは泊まっているだろう,安礼の崎(引馬野の海岸から海中に延びた砂州)を漕ぎ巡って行ったあの棚なし小舟は。
渥美半島
打麻(うちそ)を麻続王(をみのおほきみ)海人(あま)なれや伊良虞の島の玉藻(たまも)刈ります
作者未詳
(巻1 23)
〈訳〉島に流された麻続王は海人なのか。伊良湖の島の玉藻を刈っていらっしゃる。
うつせみの命を惜しみ波に濡(ぬ)れ伊良虞の島の玉藻刈り食(は)む
作者未詳(麻読王になった気持ちで)
(巻1 24)
〈訳〉命が惜しさに波に濡れ伊良湖の島の玉藻を刈って食べることだ。
潮さゐに伊良虞の島辺(しまへ)漕(こ)ぐ舟に妹(いも)乗るらむか荒き島廻(しまみ)を
柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)
(巻1 42)
〈訳〉潮騒の伊良湖の島の辺りを漕ぐ舟にかの人も乗っていることだろうか,あの荒い島のまわりを。
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伊良湖岬(田原市)