愛知の文学

三河物語

作品書名時代地域
鳥居強右衛門の尽忠
(とりいすねえもんのじんちゅう
三河物語 江戸時代 新城市

『三河物語』は,大久保彦左衛門忠教(おおくぼひこざえもんただたか)によって書かれ,徳川氏代々の功績や三河武士の姿が描かれている。

江戸に幕府を開いた徳川家は,もともとは三河山間部の松平郷(まつだいらごう)に流浪の末に定住した初代親氏(ちかうじ)に始まる。以後この家系は,時には栄えたり衰えたりしていたが,八代目の家康の時には三河国の岡崎に城を構えるまでになっていた。

家康が城持ち大名であるといっても,西の織田氏と東の今川氏に挟まれた三河の一豪族にすぎず,幼年時代の最初は今川氏への従属の時代であった。今川義元の桶狭間(おけはざま)での死によって独立を回復し,幾多の危機を乗り越え,戦国大名として頭角をあらわすようになる。

家康の天下統一に力を発揮したのは,「質朴で,困苦に耐え,利害よりも情義を重んじる」(『覇王(はおう)の家』司馬遼太郎)三河以来の譜代(ふだい)衆である。しかし,幕藩体制が確立するにつれ,忠節に励んできた主家は時とともに疎遠なものになっていく。彦左衛門は,徳川家累代の功績,合戦の様子,家臣の言行,自らの体験などを『三河物語』三巻に述べ,大久保一族の三河以来の忠節を強調し,譜代衆への扱いがその苦労にふさわしくないと憤慨している。一族の払った犠牲を空しいものと彼は感じるが,いまさら主家を去るわけにもいかず,子孫に対して主家への変わらぬ忠勤を求めている。

天正3(1575)年,家康・信長と武田勝頼(たけだかつより)の決戦の時は迫り,まず勝頼が長篠(ながしの)城に攻めかかった。城主の奥平貞昌(おくだいらさだまさ)は,武田の大軍に囲まれながらよく城を守っていたが,あと少しで落城という時に,鳥居強右衛門を通して窮状(きゅうじょう)を家康に訴えた。

その折に次のような有名なエピソードがある。

作品

鳥居は長篠城をぬけだして,織田信長の援軍が来てくれるか家康に尋ねた。家康が使いをだしたので信長は出陣した。鳥居はそれを聞いて城にもどろうとするが,捕らえられ武田勝頼の前に引き出される。勝頼は,鳥居に対し「信長は出陣しない。城を渡せ」と,はりつけのまま城に向かっていうように命じ,そうすれば命を助けるといった。鳥居は「どんなことでもいう。俸禄(ほうろく)までいただけるとはありがたい」といって,はりつけになった。

鳥居は城の前に引きだされた。話しはじめ,「信長は岡崎まで出陣している。先陣はすぐそこにみちみちている。家康は野田に来ている。しっかり城を守れ。三日のうちに運は開ける」といった。鳥居ははりつけのまま,とどめをさされてしまった。