愛知の文学

信長公記

作品書名時代地域
道三(どうさん)と信長(のぶなが)の会見 信長公記
(しんちょうこうき)
江戸時代 一宮市

『信長公記』は,織田信長の幼少の頃から天正10(1582)年本能寺で横死を遂げるまでが,編年体で記述され,尾張の武士たちの姿も描かれており,興味深い。覚え書風の記録ではあるが,所々に文学性に富んだ記述も見られる。
作者太田牛一(ぎゅういち)は織田信長に仕え,近江の代官をつとめ,後に豊臣秀吉の検地奉行となった人物。慶長15(1610)年,84歳までは生きていたことが確認されている。
妻の父である斎藤道三との会見が行われたのは,天文22(1553)年,父信秀の後を継いで間もない,まだ尾張半国も統一していない,信長20歳頃のことである。有名な桶狭間(おけはざま)の戦いもまだこの七年後である。

作品

美濃(みの)の斎藤道三は,おろか者とうわさされる信長に会ってみたいと思った。会見の場所,聖徳寺(当時は現在の一宮市内にあった)に先に着いた道三は七,八百の正装した武士を並べ驚かせてやろうとはかった。道三は町はずれの小屋に隠れて信長が来るようすを見た。それはうわさの通り乱暴者のいでたちであった。
寺の御堂に現れた信長はりっぱな服装で,供の者もおろか者をわざと装っていたことを悟った。会見でも信長は礼儀正しく,道三と信長は盃(さかずき)をかわし対面は終わった。信長を見送った道三は,いつの日か美濃が信長の家来になると残念そうにいうことであった。