愛知の文学

萱津を過ぎて

作品書名時代地域
萱津(かやつ)を過ぎて 東関紀行
(とうかんきこう)
鎌倉・室町時代 あま市
名古屋市熱田区・緑区
豊明市・知立市
岡崎市・豊川市
豊川市

『東関紀行』は仁治3(1242)年8月,都を出発した作者が東海道を下り,鎌倉に到着後約二か月間滞在し,10月に鎌倉を去るまでの旅を綴(つづ)った紀行文である。作者未詳(みしょう)。内容は同じ中世の紀行文である『海道記(かいどうき)』と比べて思想性や宗教性は希薄(きはく)であるが,文章は洗練された和漢混交文(わかんこんこうぶん)である。軍記物語や近世の俳文などにも影響を及ぼした作品といわれている。
尾張(おわり)の萱津(かやつ)(現在の愛知県あま市から三河(みかわ)の高師山(たかしやま)(現在の愛知県豊橋市)までの紀行には次のように書かれている。
なお,『海道記』にも尾張(おわり)の市かえ(現在の愛知県愛西市)から萱津,熱田宮を経て三河の八橋,豊河,境川に至るまでの紀行を記した箇所がある。

作品

花ならぬ色香(いろか)も知らぬ市人(いちびと)のいたづらならでかへる家づと

  • 甚目寺観音

萱津(あま市)の市(いち)のにぎわいに驚いて詠(よ)んだ歌

〈訳〉花の色香も解さない無風流な市人が花とは違う,役に立つ物を持って,家への土産としているよ。

思ひ出もなくてや人の帰らまし法(のり)の形見(かたみ)をたむけおかずは

熱田の宮では,古木の間から夕日が美しく差して神々(こうごう)しく,サギの群れが森のこずえに集まっているのも雪のようで,日が暮れていくと静かになった。
大江匡衛(おおえのまさひら)が,京に帰れるようこの宮に願(がん)をかけたという故事に心うたれて詠んだ歌

〈訳〉思い出の種もなくて匡衡は帰ったであろうよ。もしも仏法の記念になるものを,この宮に奉納しなかったら。鳴海の浦で詠んだ歌故郷(ふるさと)は日を経(へ)て遠くなるみ潟(がた)いそぐ潮干(しほひ)の道ぞすくなき

故郷(ふるさと)は日を経(へ)て遠くなるみ潟(がた)いそぐ潮干(しほひ)の道ぞすくなき

鳴海の浦で詠んだ歌

〈訳〉ふるさとは日々に遠くなり,急ぐ鳴海潟の潮干の道は潮が満ちてきてどんどん少なくなっていくことだ。

玉くしげ二村山(ふたむらやま)のほのぼのと明けゆく末は波路(なみぢ)なりけり

  • 二村山に残る鎌倉街道(豊明市)

二村山(ふたむらやま,豊明市か)で詠んだ歌

〈訳〉二村山でほのかに明けてきて,眺めると,この山の果ては海の上に連なっているようだ。

花ゆゑに落ちし涙の形見とや稲葉(いなば)の露を残しおくらむ

八橋(やつはし,知立市)は『伊勢物語』ゆかりの地であったが,かきつばたは見られず稲ばかりであった。これを詠んだ歌

〈訳〉かきつばたの花のために泣いた形見というので,稲葉に露を残しておくのであろうか。

別れ路(ぢ)にしげりもはてで葛(くず)の葉のいかでかあらぬ方(かた)にかへりし

  • 旅籠大橋屋(豊川市)

矢作(やはぎ)を過ぎ宮路山を越え赤坂(豊川市)の宿で,昔大江定基(おおえのさだもと)が出家の決心をしたことを思い出して詠んだ歌

〈訳〉恋人との別れの迷いがさらに深くなることがなくて,葛の葉が思いもかけぬ方に翻るように,どうして仏の道に心が向いたのだろうか。

栽(う)ゑおきし主(ぬし)なき跡の柳はらなほその陰を人やたのまん

本野が原(豊川市)で,迷わぬようにと鎌倉の執権が植えた柳を見て,中国の皇帝の善政などを思い出して詠んだ歌

〈訳〉植えた主はもういない。形見の柳の木々の陰によって,やはり人々はその恩を被るだろう。

おぼつかないさ豊河(とよかは)のかはる瀬をいかなる人のわたりそめけん

豊河(とよかわ)の宿で,渡う津(わたうづ,豊川市)を通る新しい道ができてさびれてしまったことを詠んだ歌

〈訳〉よくわからないことだ。今までと違った豊河の川瀬の道をどんな人が渡り始めたのだろうか。

岩つたひ駒(こま)うちわたす谷川の音もたかしの山に来にけり

高師の山(たかしのやま,豊橋市)で境川(さかいがわ)が,岩が多くたいそう水音をたてていた。これを詠んだ歌

〈訳〉川瀬の岩をつたって馬で渡る谷川の水音も大きく高い,その名の通り高師の山に来たのだなあ。