愛知の文学

日本の橋

作品地域分類作者
日本の橋 名古屋市熱田区 評論 保田與重郎(やすだよじゅうろう)

保田與重郎は,昭和十年代に活躍した思想家・評論家。明治43(1910)年に奈良県に生まれる。雑誌「日本浪曼派(ろうまんは)」を創刊し,ドイツロマン主義文学を称揚する立場から,論説活動を盛んに繰り広げた。昭和56(1981)年に死去。
彼の第一評論集『日本の橋』は,昭和11(1936)年に刊行され,卓越した見識眼に立脚した多くの秀作が集められている。なかでも評論「日本の橋」は,雑誌「文学界」に当初発表されたもので,西洋における橋の意味と日本の橋の特質を比較し,日本文化の特質を論じたものとして,注目される。
本文の末尾に,名古屋熱田の精進川(しょうじんがわ)に架けられていた裁断橋(さいだんばし)にまつわる哀しい伝承が紹介されている。

残念なことに精進川は大正15年に埋め立てられ,現在の裁断橋には当時の面影は残っていない。銘文の刻まれた橋の擬宝珠(ぎぼし)は名古屋市博物館に保存されている。

  • 擬宝珠(ぎぼし)

  • 擬宝珠に刻まれている銘文

  • 現在の裁断橋
    (名古屋市熱田区伝馬町)

作品

天正18年2月18日に,小田原への御陣 堀尾金助(ほりおきんのすけ)と申す,18になりたる子をたたせてより,またふためとも見ざるかなしさのあまりに,今この橋をかけるなり。母の身には落涙(らくるい)ともなり,即身成仏(そくしんじょうぶつ)したまへ,逸岩世俊(いつがんせいしゅん)と,後の世のまた後まで,この書き付けを見る人は,念仏申したまへや,33年の供養なり。

橋の擬宝珠(ぎぼし)に刻まれていた銘文(めいぶん)です。豊臣秀吉に従って小田原陣に出陣した18歳の若武者堀尾金助の33回忌の供養に,母が,この橋を架けましたので,後の世までも「逸岩世俊(戒名)」と念仏を唱えてやってほしいと頼む内容となっている。橋を架け,ゆきずりの人々に子供の供養を呼びかけた母の美しい心情が伝わってくる。