スマトラ8朱しゅ印いん船せん6王おう直ちょく(?〜1559)(?〜1559)C3朱しゅ印いん船せん貿易から「鎖国」へB3鉄砲伝来解説東シナ海の交易と日本への鉄砲伝来 1543年(1542年説もある), 1543年(1542年説もある),種種た子子ねが島島しまにジャンク船が漂着し,領主種子にジャンク船が漂着し,領主種子は乗っていたポルトガル人から火火ひ島島時時とき尭尭たかは乗っていたポルトガル人から縄縄なわ銃銃じゅうを購入した。当時,を購入した。当時,明は海禁政策をとっていたので,東シナ海や南シナ海では倭寇(海商)と新参のポルトガルの貿易商人が連携し,日本銀,絹や陶磁器など中国産の商品,インドし,日本銀,絹や陶磁器など中国産の商品,インドや東南アジア産の商品(東南アジア製の火縄銃や,火薬の原料や東南アジア産の商品(東南アジア製の火縄銃や,火薬の原料のの硝硝しょう石石せき,,鉛鉛なまり,,胡胡こ椒椒しょうなど)の密貿易を行っていた。倭寇のなど)の密貿易を行っていた。倭寇の頭頭とう目目もくででジャンク船の船主である王王おう直直ちょくは,この密貿易の主導者であった。ジャンク船の船主であるは,この密貿易の主導者であった。Q東東南南アアジジアアへへ向向かかっったた目目的的はは何何だだろろううかか??9長崎の港と出島 江戸幕府は,キリスト教の影 江戸幕府は,キリスト教の影響を恐れ,中国とオランダとのみ通商を行うこととし,響を恐れ,中国とオランダとのみ通商を行うこととし,平平ひら戸戸どのオランダ商館を長崎の出島に移した。のオランダ商館を長崎の出島に移した。幕府による禁教,貿易と外交の管理・統制体制を「鎖国」と呼ぶ。室町時代Q「84の言語が話される」とは,どのような「84の言語が話される」とは,どのような状況を表しているのだろうか?状況を表しているのだろうか?314041404154315431549154915841584161116111612161216161616金,銅刀剣米野菜●海禁政策●アジア海域に進出2明明錫明 0明江戸時代7火ひ縄なわ銃じゅう(種た子ねが島しま銃)ポルトガル伝来の銃。種子島時尭は購入した銃のポルトガル伝来の銃。種子島時尭は購入した銃の製造法を領内で研究させ,やがて本州でも生産さ製造法を領内で研究させ,やがて本州でも生産されるようになった。 れるようになった。 全長99.8㎝世界遺産マラッカ全長約900㎞幅(最狭部) 65㎞シンガシンガポールポールペナンママララッッカカ海海峡峡C2マラッカ王国の繁栄B2琉球の中継貿易前期倭寇後期倭寇中国人中心日本人・朝鮮人高麗・朝鮮1350年14001450ポルトガル901500(田中健夫『倭寇 海の歴史』)1550朝鮮インド朝貢貿易朝貢貿易日本琉 球東南アジア琉球胡椒,丁子蘇木マルク諸島マラッカ王国東南アジア162416241635163516371637163916391641164116881688A3倭わ寇こうの活動時期300(回)200100A2琉りゅう球きゅうの繁はん栄えい解説東アジア海域の貿易センター琉球では,1429年に中中ちゅう山山ざん王王おう尚尚しょう巴巴は志志しが北山・南山を琉球では,1429年にが北山・南山をを統一した(琉球王国,都都..首首しゅ里里り)。明)。明滅ぼし滅ぼし琉球を統一した(にに朝朝ちょう貢貢こうする琉球は,シャムのアユタヤ朝やマラッする琉球は,シャムのアユタヤ朝やマラッカ王国,朝鮮や日本との中継貿易(那那な覇覇は港)によっ港)によっカ王国,朝鮮や日本との中継貿易(て栄え,各地の文化を融合した琉球文化を築いた。て栄え,各地の文化を融合したを築いた。 琉球は,1609年に島しま津づ氏の■さつ摩ま藩はんの支配下に置 琉球は,1609年にかれたが,その一方で明(清)の朝貢国としても存続した(1879年琉球藩した(1879年琉球藩4那覇港の繁栄 中国中国に渡航して得た中国商品を,に渡航して得た中国商品を,東南アジア,朝鮮,日本に売東南アジア,朝鮮,日本に売りさばいた。朝貢船は中国のりさばいた。朝貢船は中国のジャンク船ジャンク船(⬅p.35写)と同じと同じタイプ。タイプ。(弘末雅士『東南アジアの港市世界』より要約)(弘末雅士『東南アジアの港市世界』より要約)沖縄県)。沖縄県)。 マラッカ王国は,■てい解説東南アジア・インド洋の貿易センター マラッカ王国は,和わの船団の寄港地として,明を後ろ盾に仏教国のアユタヤ朝やヒンドゥー仏教国のアユタヤ朝やヒンドゥー教国のマジャパヒト王国の干渉を排除した。また,国王がイスラーム教に教国のマジャパヒト王国の干渉を排除した。また,国王が改宗して西アジア世界との関係を深めた。ムスリム商人から綿布や宝石・。ムスリム商人から綿布や宝石・銀を,中国商人から陶磁器や絹を,ジャワ商人からマルク(モルッカ)諸島銀を,中国商人から陶磁器や絹を,ジャワ商人からマルク(モルッカ)諸島の香辛料を入手した。マラッカ王国は,海の交易世界の結結ハ ブ節点節点となった。の香辛料を入手した。マラッカ王国は,海の交易世界のとなった。ポルトガル商人が見たマラッカ(16世紀)マラカの港ではしばしば84の言語がそれぞれ〔話されるのが〕見られるということである。…(中略)…マラカは商品のために作られた都市で,〔その点については〕世界中のどの都市よりもすぐれている。(トメ=ピレス『東方諸国記』)(トメ=ピレス『東方諸国記』)マラッカ王国における港務長官(外国人商人の代表)の担当地域①グジャラート(インド西部),,ペルシア,,アラブ,トルコ,アルメニアなど,トルコ,アルメニアなど ②①以外の以外のインド,ペグー,,ペグー,スマトラ③②以外の以外の東南アジア諸島部④中国,,チャンパー,,琉球1543 種子島に鉄砲伝来後期倭寇王直(倭寇)ポルトガル人刀剣銅綿織物蘇木蘇木,絹織物陶磁器絹織物陶磁器刀剣銅銭絹織物陶磁器蘇木香辛料海禁政策海禁政策絹織物陶磁器丁子(クローヴ)絹織物,陶磁器 綿織物 徳川 徳川家家いえ康康やすは,海外渡航を許す朱印は,海外渡航を許す朱印状を発行し,東南アジアと貿易を行った。明の海状を発行し,東南アジアと貿易を行った。明の海禁政策により直接入手できない中国産の生糸や絹禁政策により直接入手できない中国産の生糸や絹織物を輸入し,日本からは銀が輸出された。織物を輸入し,日本からは銀が輸出された。海流■摩藩の船マラッカの街並み5マラッカ海峡インド洋と南・東シインド洋と南・東シナ海をつなぐ交通のナ海をつなぐ交通の要要よう衝衝しょう。。⬅p.81地(「琉球貿易図屛屛びょうびょう風風ぶぶ」 滋賀大学(「琉球貿易図」 滋賀大学経済学部附属史料館蔵)経済学部附属史料館蔵)清から帰国した琉球の朝貢船中国沿岸で密貿易長崎奉行所出島「寛文長崎図屛風」「寛文長崎図屛風」オランダ船13倭寇蘇木,香辛料刀剣 東アジア諸国の明への入貢回数琉球171171チャンパー(占城)7474チャンパー(占城)朝鮮朝鮮3030マラッカ2323マラッカ日本日本1919東南アジア産 中国産 日本産 朝鮮産D2マラッカ王国の中継貿易胡椒,丁子蘇木綿織物東南アジア産 中国産 日本産 インド産日本中国朝ちょう貢こう貿易で栄えた国日本の貿易と「鎖さ国こく」勘かん合ごう貿易開始(〜1547)開始(〜1547)ポルトガル人が種た子ねが島しまに漂着(鉄砲伝来)(鉄砲伝来)⑦キリスト教の伝来(ザビエル来日)(ザビエル来日)スペイン商船が平平ひら戸戸どに来航に来航スペイン商船が中国(明)船の長崎貿易許可中国(明)船の長崎貿易許可幕幕ばくばく領領りょうりょうでキリスト教を禁止(1613年全国へ)でキリスト教を禁止(1613年全国へ)中国(明)船を除く外国船の入港地を平戸・中国(明)船を除く長崎に限定スペイン船の来航を禁止スペイン船の来航を禁止日本人の海外渡航と帰国の全面禁止島原の乱(〜38)島原の乱(〜38)ポルトガル船の来航禁止ポルトガル船の来航禁止オランダ商館を長崎の出で島じまに移す⑨唐とう人じん屋敷を長崎郊外に建設(翌年完成)(翌年完成)鉄砲伝来の背景171
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