新詳日本史 2026年度版 ダイジェスト版
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知識の定着と主体的な学びを図る基本ページ中臣(藤原)鎌足の墓?物人0100km渡島で抵抗する蝦夷といわれるえみし*北海道説が有力。*北海道説が有力。粛慎みしはせ(あし)わたりしま*阿倍比羅夫の水軍推定航路あべの ひ ら ふ658〜660平定斉明つ がるぬ しろ(能代市付近)あぎた(秋田市付近)えみしみちのくむ  つ659初見676初見孝徳孝徳磐舟柵 648(村上市と推定)いわふねのさく渟足柵 647(新潟市と推定)ぬたりのさく渡島津軽渟代齶田越国蝦夷居住地道奥国陸奥国米代川雄物川お ものがわ最上川北上川23SM_F022W 45.5mm H 75.5mmP.60朝鮮式山城熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな    (『万葉集』)額田王白村江の戦い663年百済再興軍新羅軍高句麗唐新羅668年滅660660年滅年滅660年滅平壌金城金田城周留城那之津(博多津)熟田津松山市付近大津宮ぬかたのおおきみにきたつここう く りへいじょうはくそんこう(はくすきのえ)667屋島城667高安城飛鳥667665664665667( )難波津熊津城ゆうしんきんじょうす るしゅうりゅうしらぎくだら唐軍基肄城,水城,大宰府, 大野城朝倉宮で斉明天皇没。 661年,中大兄称制さいめいしょうせい**現,福岡県朝倉市。23SM_F007W 67mm H 75.5mmP.60百済対馬0200km御御笠笠川川みみかさかさななかか那那珂珂川川博多湾博多湾室見川室見川た た らた た ら多々良川多々良川玄界灘玄界灘対馬海峡対馬海峡朝鮮海峡朝鮮海峡蒙古山蒙古山相ノ島相ノ島大島大島沖ノ島沖ノ島能古島能古島玄界島玄界島天拝山天拝山高雄山高雄山宮地岳宮地岳三郡山三郡山三三郡郡山山地地壱岐壱岐い きい き志賀島志賀島しかのしましかのしま対馬対馬つしまつしま姫島姫島朝鮮半島朝鮮半島那之津(博多津)那之津(博多津)なのつなのつ糸島糸島古賀古賀古賀福津福津福津大野城大野城筑紫野筑紫野太宰府太宰府春日春日福岡福岡大野城大野城水城水城みずきみずき金田城金田城大宰府条坊域大宰府条坊域大宰府条坊域11kkmm001km011kkmm001km0地形・地勢は現在古代の海岸線(推定・部分)古道(推定・部分)   現在地名官衙・城・寺院など23SM_F029W 188mm H 111mmP.60脊振山地脊振山地脊振山地せせふりふりせふり基肄城基肄城(椽城)(椽城)ききいい基肄城(椽城)きい筑紫館筑紫館(鴻臚館)(鴻臚館)ここううろろかんかん筑紫館(鴻臚館)こうろかん大宰府の中枢部大宰府の中枢部大宰府の中枢部観世音寺観世音寺かんかんぜぜおおんんじじ観世音寺かんぜおんじABCD1234対外戦争や国内の内乱を経て,律令制はどのように整えられたのだろうか?アプローチ解 説唐の高句麗攻撃で緊張が高まる中,政府は支配区域の拡大に努めた。大化改新が始まった頃,東北地方の日本海側に勢力をのばし,2柵さくを設置した。斉明天皇の時には,阿あ倍べの比ひ羅ら夫ふを派遣した。解 説白村江の戦いの後,政府は国防の強化を図り,①九州に防さき人もり・烽とぶひを設置し,②大宰府の北西に水みず城きを築き,③対つしま馬から大和にかけ,金かね田だ城・大おお野の城・基き肄い城など朝鮮式山やま城じろを築いた。築城には,百済からの亡命貴族が技術指導を行った。また,都を近江大津宮に移した。(ほう)1 渟足柵の想像CG 提供/新潟市歴史博物館大宰府側〈全長約1km〉博多側堀木□(ひ)80m幅60m大堤高さ14m土塁堀(深さ4m)23SK_F006W 62.5mm H 15mmP.602 九州北部鳥瞰図 九州北部は朝鮮半島に近く,大陸から日 九州北部は朝鮮半島に近く,大陸から日本への窓口である。大宰府の外港博多本への窓口である。大宰府の外港博多(現福岡市)は入江に位置すは入江に位置する天然の良港で,大陸との交通の要衝となった。 る天然の良港で,大陸との交通の要衝となった。 作成/北海道地図㈱5 水城跡と断面図(福岡県太宰府市・大野城市・春日市)4 大野城の百ひゃっ間けん石垣 大野城は,大宰 大野城は,大宰府の背後の山に築かれ府の背後の山に築かれた朝鮮式山城で,現在た朝鮮式山城で,現在の福岡県の福岡県糟糟かす屋屋や郡郡宇宇う美美み町・太宰府市・大野城町・太宰府市・大野城市にまたがる。市にまたがる。土土ど塁塁るいやや石垣(石垣(石石せき塁塁るい)で約8)で約8kmkmの城壁をめぐらせていの城壁をめぐらせていた。た。1東北への進出  孝こう徳とく・斉さい明めい朝 →→p.71古代東北史)(2白村江の戦い 663年  中大兄称しょう制せい ( )( )太宰府市の水城跡太宰府市の水城跡第2広場より撮影第2広場より撮影→博多側→博多側 中臣鎌足は亡くなる前日(669年),天てん智じ天皇より大たい織しょく冠かん・藤原の姓せい(氏うじ)を与えられた。1987(昭和62)年,阿あ武ぶ山やま古墳(大阪府)内部の写真を分析したところ,冠などが確認された。大織冠と見なし,鎌足の墓とするのかについて,論争が続いている。3 冠と玉枕の復元大阪 今城塚古代歴史館蔵 (←←p.50地図)  「大織」を,p.517で確認しよう。Q律令国家への道60609BEPFJ7_P0060-0061.indd 609BEPFJ7_P0060-0061.indd 602023/01/19 11:42023/01/19 11:44基本ページアプローチQ(問い)見開きの基軸となる問い。見通しや課題意識をもち,主体的に学ぶことができる歴史総合と日本史探究の接続その2「アプローチ」「Q」「深めよう」「つなげよう」などの問い,時代スケール,見開き構成など,弊社刊行「新詳歴史総合」と企画やコーナー名を統一し,歴史総合から日本史探究へのつながりをスムーズにしています。近現代史は,歴史的事象を地域や国内のさまざまな立場から見たりするなど,歴史総合とは異なる視点で学習をさらに深めています。使いやすい1テーマ1見開き構成読みやすいユニバーサルデザインフォントを使用カラーユニバーサルデザインにも配慮主体的に学習に取り組む態度を養う豊富な情報量と,丁寧で詳しい解説知識の定着技能をみがく時代スケール学習している時代がわかる理解が深まるコラム衣食住などの生活や,技術人物紹介世界とのつながり・地域とのつながり・現代とのつながり異なる切り口からの解説や,新説・補足など資料の着眼点を示す問い・資料を読み取る問い・比較や思考をうながす問いなどで構成基本的に当該資料の解説文中や,周辺の関連資料中に,解答に相当する内容を記載(教師用「浜島Webサポート」で解答例を提供)

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