資料資料埴輪や副葬品には,どのような思想が込められていたのだろうか?深めようヤマト政権の王は,大陸とどのような交流をしたのだろうか?つなげよう(m)5004003002001000(参考:清家章「古墳時代における王墓の巨大化と終焉」)平田梅山見瀬丸山河内大塚山鳥屋ミサンザイ今城塚岡ミサンザイ土師ニサンザイ大仙陵誉田御□山陵山仲ツ山五社神石塚山津堂城山渋谷向山行灯山西殿塚□墓平田梅山見瀬丸山河内大塚山鳥屋ミサンザイ今城塚岡ミサンザイ土師ニサンザイ大仙陵誉田御□山陵山仲ツ山五社神石塚山津堂城山渋谷向山行灯山西殿塚□墓はしはかあんどんやましぶたにむかいやまつ どうご さ しみささぎやまこん だ ご びょうやまだいせんりょういましろづかは ぜ3位3位2位2位墳丘長全国1位墳丘長全国1位6位6位5位5位3世紀4世紀5世紀6世紀雄略天皇(倭王武)の時代注)墳丘長全国4位は 造山古墳(岡山)。つくりやま23SG_E033W 90mm H 85mmP.45各資料を読み取ろう古墳の大きさや被葬者が変化した背景を考えよう関 連⑴ 資料1について,どのようなときに被ひ葬そう者しゃは男性で,どのようなときに被葬者は女性だといえるのだろうか。⑵ 資料1をふまえると,資料2の被葬者は男性,女性のどちらであると考えられるのだろうか。関 連⑶ 資料3について,古墳時代の前期から中期にかけて,被葬者の性別は,どのように変化したのだろうか。推 移一般的に,古墳の大型化は王権の拡大や国内政治の安定を示すとされる(左下コラム参照)。しかし,資料4(下の系図も含む)をふまえると,異なる見方もできる。資料3・資料4から,古墳の被葬者が変化し,古墳が大型化した背景を説明しよう。資料1副葬品(←←p.44)と被葬者の関係資料2向むこう野の田だ古墳の埋葬資料3鏃と甲冑の副葬率(近畿地方)資料4王墓の候補とされる古墳の墳丘長•武器のうち鏃やじり・甲かっ冑ちゅうは,基本的に男性にだけ副葬される。•武器のうち刀・剣は,男女共に副葬されるが,棺内に埋葬されるのは男性だけである。•装そう飾しょく品のうち玉類は,男女共に副葬される。•装飾品のうち鍬くわ形がた石いしは,男性にだけ副葬される。•装飾品のうち車しゃ輪りん石せきと石いし釧くしろは,男女共に副葬される。•車輪石・石釧が被葬者の腕の近くで見つかる場合,被葬者は女性である。1 石室内の様子(熊本県宇土市) 向野 向野田田古墳は4世紀後半頃につくられた全長約古墳は4世紀後半頃につくられた全長約90mの前方後円墳。90mの前方後円墳。竪竪たて穴穴あな式石室の内部に長式石室の内部に長さ約4mの石棺が置かれていた。石棺はさ約4mの石棺が置かれていた。石棺は凝凝ぎょう灰灰かい岩岩がんをくりぬいてつくられ,棺の中はをくりぬいてつくられ,棺の中は朱朱しゅでで塗られていた。30歳前後の人骨一体が車輪塗られていた。30歳前後の人骨一体が車輪石や鏡と共に北枕の状態で納められ,石室石や鏡と共に北枕の状態で納められ,石室と石棺のと石棺の隙隙すき間間まからは多くの剣や刀が見つからは多くの剣や刀が見つかった。かった。 提供/宇土市教育委員会提供/宇土市教育委員会古墳時代前期の前方後円墳77基古墳時代前期の前方後円墳77基古墳時代中期の前方後円墳23基古墳時代中期の前方後円墳23基(清家章『埋葬からみた古墳時代』)(清家章『埋葬からみた古墳時代』)どちらもなし 33%どちらもなし 33%鏃もしくは甲冑あり67%鏃もしくは甲冑あり67%91%91%9%9%23SG_E032W 40mm H 85mmP.45P45系図左P.45そうじょわ こくでん赤字は□宋書□倭国伝での表記(讃・珍は諸説あり)(→p.46)おうじんさん(讃)ちん(珍)せい(済)こう(興)ぶ(武)(履中系)(允恭系)15応神にんとく16仁徳にんけん24仁賢り ちゅう17履中はんぜい18反正けんぞう23顕宗いんぎょう19允恭あんこう20安康ゆうりゃく21雄略せいねい22清寧けいたい26継体せん か28宣化あんかん27安閑ぶ れつ25武烈きんめい29欽明■■■■■いましろづか(今城塚古墳に埋葬と推定)P.45P45系図右W 43mm H45mm(履中系)にんけんくさ かた しらかのひめみこめの こ ひめお わりのむらじり ちゅう(地方豪族)2426仁賢尾張連草香手白香皇女((目子媛けいたい継体29きんめいみ せ欽明28せん か宣化27あんかん安閑見瀬丸山古墳への埋葬が確実赤字は女性車輪石車輪石鏡鏡雄略天皇の業績•履り中ちゅう系の王子や,王位継承候補の兄らを暗殺。有力豪族を制圧。•渡と来らい人じんを重用し,政権を強化。•朝鮮半島に出兵。宋そう(南朝)に遣使。左の系図について•『宋そう書じょ』倭わ国こく伝でんには,珍ちんと済せいの関係が記されていないため(→→p.46),2つの王統存在説がある。•允いん恭ぎょう系と履中系の婚姻は何度か失敗し,暗殺事件もみられることから,対立関係がうかがえる。右の系図について•継けい体たい天皇の没年や,欽きん明めい天皇の即位年が史料により異なるため,安あん閑かん・宣せん化か・欽明の間で王位継承が円滑に進まなかったという説や,二朝並立説がある。関連ページ大型前方後円墳 p.43・50埴輪と副葬品 p.44倭の五王 p.46・雄略天皇 p.47読み取り例 p.42世界的視点でみる古墳界世中国…戦国時代に各王が競って100m級の墳ふん丘きゅう墓ぼを築く。その後,中国初の統一王朝の皇帝である秦しんの始し皇こう帝ていは一辺515mの王陵を築き,その力を示した。エジプト…ピラミッドは,古王国の行政組織が整備される発展期に大型化し,クフ王のピラミッドは一辺230mに達した。 王墓の大型化の背景には,王による統一や,王権の発展がみられる。□はし墓はか古墳(←←p.42)もそれまでの墳丘墓にはみられない280mの規模で,後漢の皇帝陵の影響も受けたとされ,その画期性が指摘されている。4545被葬者にみる古墳時代の社会14
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